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【会期終了】収蔵品展「ナガシノノキオク~中津藩士のルーツは長篠にあり~」

ごあいさつ

中津藩士のルーツが長篠にあることをご存知でしょうか。天正3年(1575)5月、武田勝頼軍と織田信長・徳川家康連合軍が、長篠設楽原で対峙しました。戦国最強を誇る武田の騎馬軍に、大量の鉄炮を用いて勝利した織田信長は、一気に天下人へ駒を進めました。この長篠の戦いのきっかけになったのが長篠城の攻防戦です。当時の城主はのちに中津藩主となる奥平氏です。人質になっていた妻子を失っても武田を離れ徳川についた奥平貞能と信昌父子、1万5千を超える武田軍に囲まれ落城寸前の城内に向け援軍は来る!と叫び磔になった鳥居強右衛門、士気をあげ城を守り通し長篠の戦いの勝利に貢献した家臣たち。いくつもの戦国ドラマがありました。その系譜を継ぐ中津藩では開運戦と呼び、自分たちの先祖の功績を称えました。本展では旧藩士家伝来資料に残された「長篠の記憶」をご紹介します。

長篠の戦いとは!?

日本史の教科書に必ずと言っていいほど登場する「長篠の戦い」。戦国最強を誇る武田の軍勢に、織田信長が大量の鉄炮を導入して勝利し、天下統一の足がかりとなった戦である。永禄3年(1560)、桶狭間の戦いにて織田信長により今川義元が敗死すると、それまで今川に属していた三河の松平元康は離反し、織田信長と同盟を結び徳川家康と名を改めた。甲斐の武田信玄らが将軍・足利義昭に呼応し信長包囲網を敷いた際も、信長との同盟を守ったが、武田軍の三河侵攻にあい、三方原で敗れた。しかし武田軍は信玄の死により戦線を引き、奥三河を奪還した家康は、武田方であった当地の豪族・奥平氏を調略し、長篠城に配した。武田勝頼は再び遠江・三河に侵攻。天正3年(1575)5月、長篠城を包囲した。後詰(援軍)に出た織田・徳川連合軍は、設楽原にて武田軍と対峙し、騎馬隊に対抗するため、三重の土塁や馬防柵を構築し、千挺を超える鉄炮を用いてこれに勝利した。長篠城を守りきり、戦を勝利に導いた奥平氏が、のちに中津藩主となるのである。

長篠城の攻防は奥平家の語り草!

奥三河に勢力を張った山家三方衆という三氏のうち、作手(愛知県新城市作手)を領したのが奥平氏であった。今川氏に与力していたが、桶狭間ののちは徳川家康に降った。今川氏が倒れたことで、駿河・三河へ侵攻した武田氏は、三河の諸城を攻略し国人たちを切り崩していった。奥平氏も再び武田に属し、三方原の戦いでは武田軍として徳川勢と戦っている。武田信玄がこの世を去ると家康は、三河の諸将を味方につけるべく工作している。この誘いにのり、再び家康に帰参したのが、奥平貞能と信昌父子であった。家康は遠江に近い三河国内の要所・長篠城を攻め、武田方の城主・菅沼正貞は開城し降伏、三河の東の守りとして、奥平信昌を城主に据えた。天正3年(1575)、武田勝頼は遠江を経て再び三河に侵攻を始めた。1万5千を超える兵を率いた勝頼は長篠城を取り囲み、長篠城は孤立した。城を守る信昌の兵はわずか500であったとされる。(☞忠臣・鳥居強右衛門、決死の叫び)援軍に駆けつけた家康・信長の連合軍は、設楽原に陣を張り、馬防ぎの柵と三千挺の鉄砲で、武田の騎馬隊を撃退。世に言う長篠の戦いは家康・信長連合軍の大勝に終わった。この勝利には長篠城を死守した奥平家の功績が大きく、信昌は信長から信の一字を拝領し(それまでは貞昌と名乗っていた)、家康の長女・亀姫を娶っている。これにより奥平家は徳川譜代の大名となったのである。

奥平家参河物語
1冊
源定登写・江戸時代・写本
耶馬渓風物館蔵
『三河物語』は江戸初期に大久保忠教によって著された徳川家勃興の歴史書であるが、本書はそれになぞらえて徳川家臣・奥平家の勃興を記したものである。本書は上下巻を合冊にした写本で、上巻は貞能までの歴代当主の履歴、下巻は信昌の履歴で長篠合戦の様子が記されている。
奥平家譜
1冊
岩崎佳蔵著・江戸時代後期
当館寄託・個人蔵
奥平家の家譜。村上源氏の系図をもとに、歴代当主の事績を記している。奥平信昌の項は厚く、長篠城の攻防戦、設楽原の戦いの様子を詳しく書いている。戦功のあった家士のこと、特に鳥居強右衛門をはじめ戦死した者についてその状況などが書かれており、各家から提出された系図をもとにしていると考えられる。
奥平家士家譜
1冊
江戸時代後期
当館寄託・個人蔵
冒頭に「岩崎」とあり、「奥平家譜」の著者・岩崎佳蔵が、その編纂のために、収集した史料や各家の伝記などを書き写したものと考えられる。中に長篠城の広さや曲輪の構成などの情報が注記されており、城の見取り図が挿入されている。天明2年(1782)とあるので、当時の現況を調査したものであろう。

忠臣・鳥居強右衛門、決死の叫び

長篠城は兵糧が底をつきはじめ、あと数日で落城というところまで迫っていた。信昌は家康へ援軍を要請しようと使者を送り出すことにした。使者として名乗り出たのが、鳥居強右衛門勝商である。強右衛門は夜の闇に乗じて城を抜け出し、川を泳ぎ、敵中をくぐり抜けて、家康の居城・岡崎に走った。強右衛門の伝達による信昌の援軍要請を受け、家康はすぐさま長篠へ向かうことを決定した。すでにこのとき、同盟を結んでいた織田信長の軍勢が岡崎に到着し、武田攻めの準備を終えていたからである。家康は強右衛門に、援軍に向かうゆえしばし持ちこたえよと、城への檄を申し付け、伝言を賜った強右衛門は再び長篠城へ走った。ところが、あと一歩のところで武田軍に見つかり捕まってしまう。徳川・織田の援軍の到来を知った勝頼は、城内の士気を下げるべく、強右衛門に偽の伝言を伝えるように命令した。すなわち、援軍は来ないから城を明け渡せという旨である。そうすれば命を助け褒美をやろうと強右衛門に言いつけた。しかし強右衛門は死を恐れず城内に向かって、援軍は来るぞと大声で叫んだ。怒った勝頼は強右衛門を磔にし、見せしめのため城内から見えるようその亡骸を磔のまま晒した。強右衛門決死の伝言を得た城内の兵たちは士気に満ちあふれ、援軍がくるまで城を守り通したのである。

鳥居強右衛門の磔図

東京大学史料編纂所に所蔵されている「落合佐平次道次背旗」は、磔にされた鳥居強右衛門を描いた旗である。真っ赤な肌に逆だった髪、見開いた目や強くへの字に結んだ口は、忠臣・強右衛門の意思を強く感じる肖像である。強右衛門の姿を背旗にした落合佐平次は、長篠の戦いの時には徳川方の武将として参戦しており、磔にされた強右衛門を目撃し、その勇姿を留めるべく背旗にしたと伝えられている。史実はわからないが、落合家が代々、強右衛門磔図を背旗にしたのは事実で、編纂所に所蔵されるのはその初代のものである。強右衛門の磔図は写が作られ各所に現存する。これらの写は、この落合家の背旗を原本としている。今回の展示で紹介する神谷家本と小幡記念図書館旧蔵本もこの写の類であろう。

鳥居強右衛門磔之図
1舗
江戸時代後期
当館寄託・個人蔵
鳥居強右衛門の磔図で、「落合左平次指物之写」と注記されている。落合家の背旗を写したものと思われるが、肌は肉色で、原本と比べると線が細くやや忠実さに欠ける。これら写本が落合家に残る下絵をもとにしたという指摘もされている。中津藩士の家に伝来した磔図として貴重である。
参考:金子拓「鳥居強右衛門 語り継がれる武士の魂」

貰った刀は今や国宝!大般若長光

長篠城の戦いに勝利した徳川家康は、5月21日の夜に長篠城に入城した。籠城の士を讃え、城主・奥平信昌に太刀・大般若長光を賜った。これは足利将軍家の宝物で、三好長慶から織田信長の手に渡り、姉川の戦いの勝利の際に家康に贈られたという。信昌の後は、四男・忠明が継承し、武蔵国忍藩が所蔵したが、昭和14年に帝室博物館(現東京国立博物館)が買い上げ現在も所蔵している。長光は備前長船派の刀工。大般若の由来は銭六百貫という破格の値がついたため、全六百巻ある大般若経になぞらえて名付けられたという。1951年6月9日に国宝に指定された。

奥平家刀剣録
1冊
江戸時代後期
当館蔵
本書は奥平家に伝来する刀剣類の目録。本書は写本であるが、奥付によると原本は明和8年(1771)に奥平昌鹿の命によって永島岩右衛門なる人物が録したとある。大般若長光は足利将軍重代の名刀で、信長の手により家康に贈られ、長篠籠城の功績によって奥平信昌が家康より拝領したという経緯が記されている。

中津藩とナガシノノキオク

長篠城に籠城した奥平家臣たちは名があるものだけでも100名に上る。その中で兵たちを導き、城を守った功績として七人の奥平一族と五人の家老たちは家康より直に褒賞を受けた。この七族五老は三河以来の家老衆として、入れ替わりがありながらも存続し、奥平家が大名になると大身衆として家臣団の上位に位置付けられた。それ以外の家臣たちも家ごとに長篠の記憶を伝えている。江戸時代の中津藩で編纂された御家中系図は各家の系譜を提出され編集したものだが、長篠以来の家の多くは先祖の功績を記しており、藩士のルーツが長篠にあることを示している。中津藩では長篠城の攻防を開運戦と呼び後代まで語りついだ。明治期に設立した育英機関・開運社もその名に由来する。

御家中系図(菅沼勝重)
1冊
享保7年(1722)
当館蔵
菅沼勝重は、田峯菅沼氏の一門だったが、長篠籠城の際は、奥平に味方すべく田峯を出て長篠に入城した。長篠城に備られた三十目(30匁・玉の重さ112.5g)の鉄炮を放って敵の侵入を防いだことを記す。
鎗 兼景
1口
室町時代末期
当館寄託・個人蔵
長さ33.0㎝、銘「兼景」
刃文はのたれに互の目交じり。兼景は美濃国関の刀工で室町末期の作品が残る。この鎗も明応期(1500年頃)と極められており戦国期に実践向けに作刀された。
短刀 兼升
1口
室町時代末期
当館寄託・個人蔵
長さ25.7㎝、反り0.1㎝、銘「濃州関住兼升」
刃文は直刃、鍛は板目肌。ほとんど反りのない姿が美しい。兼升は美濃国関の刀工。室町末期の作品を残す。
鈴木閑雲宛 小幡篤次郎書簡 
1通
明治22年(1889)3月
福澤記念館蔵
開運社とは明治16年、中津市学校閉校に伴いその資金と人員によって設立された育英基金。中津市学校は奥平家の資産と、藩士の積立資金で運営された。開運社は明治期旧藩士社会を牽引する存在でもあり、奥平家中を象徴する長篠合戦を意味する開運の文字が用いられたと考えられる。この書簡は福沢諭吉の右腕として活躍した小幡篤次郎が同じく上士階級出身である鈴木閑雲に宛てたもので、開運社の行末について相談している。彼らは長篠合戦と直接的なつながりはなかったが、奥平家臣や中津藩の中で、長篠合戦がいかに重要視され、その意識が近代まで引き継がれたことを示す事例である。