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企画展「渡辺家〜中津藩国学の系譜〜」

 中津藩国学者渡辺家の資料が約120年ぶりに里帰りしました。渡辺家は八幡古表神社の神官の家系で、第34世・渡辺重名は本居宣長らに師事し、国学者として活躍した人物です。重名の孫である重春・重石丸も国学者として、幕末維新期に中津藩士の教育を行いました。渡辺家資料について今まで調査は進んでいませんでしたが、令和元年より中津市が資料調査を開始しました。本企画展では、発見された貴重な資料を初めて公開します。

渡辺重名肖像

第一章 渡辺家の文化的交流 

 渡辺重名は、安永5年に漢学を学ぶため、初めて京都にのぼりました。この上京で、頼春水らと学友になった重名は、以後様々な文化人と交遊するようになりました。その後国学を志して再び上京した後は、本居宣長ら国学者との交友が強まりますが、その交友関係は儒者・漢学者・画人・公家など多岐にわたりました。重名は彼らと頻繁に手紙を送りあい、江戸や京都で会う際には歌会を開いて交流し、それらの資料は渡辺家の宝として受け継がれました。
 本章では、重名の師である本居宣長ら国学者の資料をはじめ、倉成龍渚・三浦梅園・田能村竹田といった九州の文化人の書簡、松平定信が重名に送った和歌などを展示します。また江戸後期にかけて活躍した谷文晁や柴野栗山、木村蒹葭堂、円山派画師といった著名な文化人が寄せた寄合書は非常に貴重なもので、見逃せない一品です。

松平定信和歌
文人寄合書「仙人図」

第二章 渡辺重名と学問

 渡辺重名は天明2年に国学を学ぶため、京都・伊勢にのぼりました。そこで国学者荒木田久老に見出された重名は彼の元で学び、その後本居宣長に師事しました。重名の著作は多くはありませんが、渡辺家資料からは重名の紀行文に宣長が添削したものも見つかっており、国学者として活動していた姿がうかがえます。
 本章では、これまで発見されていなかった本居宣長著作『後撰和歌集問答』をはじめ、重名が伊勢及び京都において校訂、書入れを施した万葉集など国学史上非常に貴重な資料を展示します。また、重名の京都や江戸での暮らしぶりを記した日記類『天明二年京都伊勢遊学日記』や『在府日録』、重名が中津藩藩政に貢献した姿がわかる資料を展示し、重名の国学者としての一面を明らかにします。

『〔天明二年京都伊勢遊学日記〕』
「称皇朝歌集」

第三章 渡辺家の系譜

 渡辺家は宇都宮家家臣渡辺右京進重国の子孫で、代々八幡古表神社の神官を務めた一族です。本章では渡辺家の系譜を示す最も古い資料の一つとして、寛文9年に渡辺重辰(第30世)が拝領した「神道裁許状」を展示します。また渡辺家の神官としての一面を表す資料として、小笠原長胤の奉書も展示します。渡辺家資料には神社の運営に関する資料も多数発見されており、地域の神官としての活動がうかがえます。
 他、渡辺重春・重石丸の従兄にあたる増田宋太郎筆写の『気吹舎文集』や渡辺家私塾・道生館の写真、渡辺重春・重兄編纂の『豊前志』草稿など、幕末から明治にかけての渡辺家の活動を示す資料も出陳します。

道生館写真
渡辺重春肖像写真

約120年ぶりの里帰り

 明治維新後、渡辺重春は中津藩皇学校教授を勤め、明治6年に廣田神社(兵庫県西宮市)大宮司に任ぜられて中津を出ました。のち、龍田神社(奈良県斑鳩町)や大鳥神社(大阪府堺市)の宮司を歴任し、明治23年に堺にて没しました。その子重兄は、広島や中津や群馬で中学校の教員を勤めた後、皇學館の教授を勤めましたが若くして亡くなりました。ご子孫は三重県津市に移住し、代々伝えてきた資料を保管されてきました。令和元年、慶應義塾福澤研究センター・都倉武之准教授の元に渡辺家の方から資料の保存について相談があり、中津市と共同で調査を行いました。これまで所在の情報が途切れていた中津藩渡辺国学に関する資料群が膨大に保存されていることがわかり、令和2年3月、資料確認のため約120年ぶりに故郷中津へ資料を移しました。現在、慶應義塾斯道文庫一戸渉准教授の協力を仰ぎながら調査研究を行っています。資料群もさることながら、江戸時代より資料を入れて大切に保管されてきた木箱の群が、渡辺家の歴史の深さと重みを伝えてくれます。

典籍が収められていた木箱
現地での資料調査

展示品ゆかりの史跡めぐりをしてみませんか?

http://nakahaku.jp/wp/wp-content/uploads/2021/05/渡辺家お散歩マップ.pdf
http://nakahaku.jp/wp/wp-content/uploads/2021/05/スポット解説.pdf