【会期終了】特別展「西向くサムライ―鎌倉幕府と豊前国」
鎌倉時代ーそれは、武士が初めて武士として日本の統治をおこなった武家政権の時代です。治承4年(1180)、平家討伐のため源頼朝が挙兵しました。豊前国は平家の勢力下にあった宇佐八幡宮の支配下におかれていましたが、平家滅亡後鎌倉幕府の御家人宇都宮信房が下向し、一族が根を張りました。宇佐八幡宮は依然として一大荘園領主でしたが、平家の没官領や承久の乱などの恩賞として、地頭職が武士たちに与えられ、その多くが九州=鎮西に向かいました。彼ら、鎮西を拠点とした幕府御家人を「鎮西御家人」とよびます。宇佐八幡宮と武士の間では土地支配をめぐり争いが頻発します。そういった在地の相論を収めるため、幕府により鎮西探題が設置され、北条一族が派遣されました。そのような中で、蒙古襲来は鎮西御家人たちに大きな影響を与え、豊前の武士らも戦いや防衛にと活躍しています。鎮西探題は元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡するまで、九州統治を行いました。
本展覧会では、西へ向かった武士たちにスポットをあて、鎌倉幕府と豊前国の関係について展示紹介します。
第1章 鎌倉幕府の成立と御家人宇都宮氏
治承4年(1180)、平家討伐のために挙兵した源頼朝に与同した武士たち。下野国の宇都宮氏も早期から頼朝を支える御家人でした。鎌倉幕府の有力御家人・宇都宮氏の出自と、鎮西(九州)の豊前へ向かう様子を古文書などから紐解きます。
第2章 信房、西に駆ける
文治4年(1188)、宇都宮信房は鬼界島に逃れた源義経与同の輩を討伐すべく渡海しました。その華々しい勲功により、信房は豊前の地を与えられます。鎮西に下向した宇都宮一族は豊前国の各所に根をはり居館を構えました。宇都宮庶流の佐田氏に伝わった古文書などから豊前宇都宮氏を探ります。
第3章 邂逅―俊芿と信房
宇都宮信房は渡宋僧である俊芿律師を豊前に招来し、夫婦で帰依しました。信房は所有していた洛中の「仙遊寺」の地を寄進し、俊芿は新たに寺院を建立、「泉涌寺」と改め、戒律復興の道場としました。俊芿と信房の関係を泉涌寺に伝来した文化財からみていきます。
第4章 鎮西御家人の所領経営―相良氏と成恒名―
鎮西に土地を得た東国の武士たちは西へ下向しました。肥後人吉に入った相良氏は、豊前国上毛郡成恒名も領地として得ていました。現在も福岡県上毛町と中津市三光に成恒という地名が残ります。重要文化財「相良家文書」から、成恒名の土地経営についてみていきます。
第5章 蒙古襲来の衝撃
鎌倉時代後期、元軍の襲来は日本に大きな衝撃を与えました。鎮西御家人たちは石築地(元寇防塁)の築造や、異国警固番役の勤仕を幕府から命じられます。最新兵器で攻撃する元軍を目の当たりにした豊前の武士たちの動向と、海底から発掘された元寇船の舶載品を、絵画や古文書、考古資料からみていきます。
第6章 神への恩賞と幕府の終焉
元軍の撤退は神の加護によるものとされ、異国降伏祈祷を行った宇佐八幡宮にも恩賞として神領興行法が発布されます。領地をもとのように神社に返すという法により、神社と武士の間で土地支配をめぐり争いが頻発、相論を収めるため、幕府は鎮西探題を設置しました。十分な恩賞に預かれなかった武士の不満はつのり、元弘3年(1333)、鎌倉幕府は滅亡しました。神領興行訴訟の一端と、宇佐八幡宮の再興を資料からみていきます。
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