【会期終了】企画展「福澤諭吉の書」
令和2年、新型コロナウィルスの流行により、人との交際や働き方など社会のあり方はめまぐるしく変化しました。中津の偉人・福澤諭吉は江戸から明治にかけて激動の時代を生き、人々を新しい時代へと導いた人物です。令和2年は福澤諭吉没後120周年の年でもあり、この機会に福澤諭吉という人物を見つめなおします。
本展覧会では、福澤諭吉の手紙、原稿、漢詩など、彼が書いた様々な書にスポットライトをあてます。福澤が書く文字を通して、彼の新たな一面を探っていきます。
序章 ~福澤諭吉のルーツ~
天保5年、諭吉は中津藩士福澤百助の末の子として誕生しました。下級武士であった百助は身分こそ低いものの、大変な学識の持ち主でした。百助は福澤が1歳半年のときに亡くなりましたが、諭吉や兄・三之助は父の蔵書や父の教えを守る母から影響を受けて育ちました。ここでは、本展にさきがけて百助の書から福澤家の家風を探ります。
第一章 ~福澤諭吉の手紙~
諭吉は非常に筆まめで、たくさんの手紙を書きました。現在わかっているだけで2600通ほどの手紙が確認されています。宛先は家族や中津の人々、慶應義塾関係者、政財界の人物、内容は国政に厳しい意見を述べるもの、慶應義塾の行く末を案じるもの、家族の健康を心配するものなど様々です。今回は手紙の内容だけでなく、歳をとるごとに変化していく諭吉の書体にも着目します。
第二章 ~福澤諭吉の原稿~
諭吉の著作は56タイトルにも及びます。諭吉は著作や新聞『時事新報』を通して、人々に西洋文明社会への見識を広めることに務めました。執筆の際は何よりも伝えることを重視し、読者層を意識しました。特に一般市民にむけた著作では、従来の難解な漢文体ではなく平易な文章を心がけています。また論説の原稿は、自由に書かれた手紙とは異なり、小さな字体で一字ずつ書かれています。丁寧な推敲がなされており、諭吉がいかに注意深く執筆していたかが伺えます。
第三章 ~福澤諭吉の書風~
書画を得意とした父や兄と違い、諭吉が漢詩などを好むようになったのは44歳以降のことです。若い頃は漢学を嫌いましたが、文化的交遊や門下生から揮毫を求められることが増えたことが影響し漢詩を詠むようになりました。諭吉の漢詩は気取ったものではなく、身内と詠みあうような気軽さがあり、ユーモアに富むものも多いです。
第四章 ~福澤諭吉と中津~
第2会場である福澤記念館では、中津に関する書簡を展示します。諭吉は、19歳で中津を出てからも生涯中津の事を気にかけていました。諭吉が中津のために尽力したことは「中津留別之書」の執筆、中津市学校の設立や耶馬溪の景観保護への働きかけからもあきらかです。今回は親類や中津出身の門下生へ当てた書簡から、故郷を見守る諭吉の姿を探ります。
特別展示1 ~渋沢栄一宛福澤諭吉書簡~
昨年、一万円札の肖像が20年ぶりに変更することが発表されました。福澤記念館では令和6年度より一万円札の顔が福澤諭吉から渋沢栄一になることをうけ、慶應義塾福澤研究センター所蔵の渋沢栄一宛福澤諭吉書簡を展示します。この書簡はこれまで個人が所蔵していましたが、昨年慶應義塾福澤研究センターに寄贈されたもので、本展覧会が初公開となります。
特別展示2 ~新発見資料・福澤家旧蔵書
新中津市学校で行っている資料調査の中で発見された、福澤家旧蔵書を初公開いたします。見つかったのは福沢諭吉の父・百助が購入し、所蔵していた書籍「荘子因」で、中津藩の国学者・渡辺重名の子孫が所蔵していました。
今回発見された書籍には「福澤家蔵」の印が押されています。渡辺家の関連資料には諭吉が長崎に留学する際、留学費用の捻出のため書籍を渡辺家に売却したと記されており、青年期の諭吉の姿を知る貴重な資料です。